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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第101回 大倉山から生まれた校歌

2025.04.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『港北STYLEかわら版!』(令和7年4月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 

前回紹介した大綱中学校ですが、校歌制定の経緯として公式ホームページで下記の逸話を紹介しています。

 「昭和26(1951)22日、PTA伊東きよの氏の力添えで、一日、神保光太郎氏来校。職員、生徒代表と歓談の後、大倉山頂より本校周辺の地を俯瞰され、印象を留められた後、作詞。弘田龍太郎氏に作曲を依頼して同年33日に制定されたものである。」

 作詞者、作曲者は共に著名な方です。神保光太郎(1905~1990)は、山形県出身の詩人で、数多くの校歌を作詞しています。「大倉山頂より」とありますから、神保氏は大倉山記念館の塔屋に上ったのでしょうか。弘田龍太郎(1892~1952)は、高知県出身の作曲家で、文部省唱歌「鯉のぼり」や「靴が鳴る」、童謡「雀の学校」「春よ来い」などの作曲で知られています。

 PTAの伊東きよの氏(1906~1978)は、1946年に綱島の自宅で尚花塾幼稚園を開設し、1949年に尚花愛児園と改称、1951年に現在地へ移転しています。伊東氏の娘が前園長の生稲精子先生で、筆者は未確認ですが、当時大綱中学校に在籍していたと思われます。伊東氏は短歌会の同人で、短歌の創作活動もされていましたので、神保氏とはそこで接点があったのでしょう。

 ちなみに、伊東きよの氏が作詞した尚花愛児園の園歌は、2番で「むこうのおやまに おしろがみえて」とあります。向こうのお山とは、鶴見川対岸の大倉山であり、お城は大倉山記念館(当時は大倉精神文化研究所本館、下の写真の赤丸内)を指しています。とても目立っていたのでしょうね。この園歌は、1950年代後半に斎藤克子氏が作曲されました。

 大倉山と校歌の縁は、まだまだあります。

 大綱小学校の校歌は、1958年に文化勲章受章者の佐佐木信綱が作曲したもので、三番の歌詞に「大倉山の塔は近し」と詠っています。この塔も大倉山記念館のことです。

 県立港北高等学校の校歌も大倉山が関わっています。

 港北高校の校歌は、当初校内で作ろうとして197512月に生徒・教員から歌詞を公募しました。しかし応募がなくて外部に依頼することになり、翌19767月米山正夫氏に依頼しました。米山正夫は、日本コロムビア専属の作曲家、作詞家で、美空ひばりのヒット曲を数多く手掛けたことで有名です。米山は、さっそく港北高校を訪れます。また猛暑の8月には大倉山の上まで登ります。米山がそこに立って汗を拭いた時、頭上はるかに真っ白い夏雲が飛んでいました。その時、何かきっかけをつかんだような気がしたそうです。こうして「仰ぎ見る 白い雲 大倉山の朝」と歌い出す校歌が生まれました(1976121日制定)。

 港北高校の在校生6人で結成したロックバンド「いんぐりもんぐり」は、1986年発売のファーストアルバム「卒業記念」で1曲目にこの校歌を歌っています。(SH)

第101回 okurayama_tower.jpg

2025年3月30日、鶴見川の堤防の上から撮影。尚花愛児園の近くからではマンションの陰になって「お山のお城」が見えないので、東側へ少し寄りました。手前の河原には満開の菜の花。川の向こうの大曽根は家が林立しています。大倉山の木々は大きく育ち、大倉山記念館の先端がわずかに見えるだけです。お城はもう全く目立たなくなりました。

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