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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第104回 路傍の石造物

2025.07.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『港北STYLEかわら版!』(令和7年7月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 今回は港北八景の選定結果を紹介する予定でしたが、先日太尾小学校開校50周年のイベントで講演したときに、在校生から石造物について質問を受けました。そこで、予定を変更して小学生の質問にお答えします。

 太尾小学校の北側、港北高校入口交差点の近く、太尾堤緑道の脇に3基の石造物があります(下の写真参照)。質問は、左端の「水神社」と刻まれた石についてでした。これは、明治3年(1870215日に、源太郎・権六・三左衛門・甚左衛門の4人が世話人となり、太尾村の住民全員で建てたものです。太尾村とは、現在の大倉山一~七丁目に相当します。現在は住宅街ですが、太尾村の頃は農村でした。農業にとって水の管理はとても大切です。太尾堤緑道がある場所は、昔は鳥山川が流れていました。太尾村は、鳥山川や鶴見川の氾濫による水害が多く、農作物が全滅することもありました。そこで、水神社を鳥山川の脇に建てて、水難除けをしたのでしょう。

 右と中央の石には、「馬頭観世音菩薩」と刻まれています。馬頭観音は、本来は仏教で信仰される菩薩の一人です。馬頭の名前から、日本では民間信仰として馬に結びつけられ、死んだ農耕用牛馬の供養、豊作祈願、道中の安全祈願などのために祀られました。

 右の石は、嘉永4年(185111月に建てたもので、正面の右左に「天下太平、五穀成就」の文字も刻まれているので、農耕馬の供養と豊作祈願のために建てたのでしょう。台座に刻まれた願主(建てた人)は、太尾村の馬持講中(世話人4人、その他23人)です。ちなみに、太尾村は天保14年(1844)に88戸、明治5年(1872)は92戸で545人でしたので、嘉永4年は90戸程度と思われます。その中で馬持が27軒ですから、約3割の家で馬を飼育していたことが分かります。死んだ牛馬は、一般に人家から離れた村の外れに作られた馬捨て場に運ばれて処分されることが多かったようです。港北地域では人家は山際に建てられており、鳥山川辺りには一軒もありませんでしたので(第41回参照)、鳥山川の近くに馬の処分場がありそこへ馬頭観音碑が建てられていたのかも知れませんね。

 中央の石は、施主加藤一が昭和21年(19467月に個人で建立したもので、死馬供養のためと思われます。

 こうして調べてみると、3基の石造物は建てられた年も設置者も目的も違っており、元は別々の場所にあったものと思われます。鳥山川は、昭和47年に埋め立てられ、太尾新道と太尾堤緑道になりました。3基の石造物は、その工事に伴って現在地に集められたものでしょう。

 この他にも道路際等をよく見ると、庚申塔、地蔵、道祖神、回国供養塔、念仏供養塔、塞の神など様々な石造物があります。それらの多くは、谷戸(やと、谷間地形)などを単位とした講と呼ばれる地域集団(信仰集団)が建てていました。石造物の管理は、設置者が担っていましたが、講の多くは戦後解散してしまいましたし、設置した家が不在になる場合もありました。しかし、今でも花が供えられ、大切にされている石造物が沢山あります。現在では近隣にお住まいの心優しい方が管理していると思われます。(SH)

Three Stone Monuments.JPG

梅の実が供えられた3基の石造物、左は水神社、中央と右は馬頭観世音菩薩

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