第106回 港北高校の誕生まで ―長い道のり、その1-
- 2025.09.15
『港北STYLEかわら版!』(令和7年9月号)掲載
戦後の学校教育は、1947年の学校教育法から始まりました。しかし、新制の高等学校は、学校教育法から1年の準備期間を経た1948年に始まります。ここから1969年の港北高校開校まで、苦難の歴史が始まります。
かつての港北区は、現在の都筑区・青葉区・緑区を含む広大な地域を有していました。区内には、私立高校は慶應義塾高等学校をはじめとしていくつもありましたが、公立の高校は1校もありませんでした。港北区域は、県立横浜翠嵐高校の学区に属していましたので、公立に進学する子供たちは翠嵐を受験していました。翠嵐は、1914年に旧制の第二横浜中学校として神奈川区三ツ沢南町に開校した長い歴史を持つ学校です。
公立高校には県立と市立がありますが、港北区内ではまず県立高校を建設しようとの話が先行します。1949年頃に港北高校推進委員会が結成されました。この港北高校とは、港北区内に新設する高校という程度の意味であり、現在の港北高校を指すものではありません。高校を新設する候補地として菊名、小机、中山〔緑区〕、川和〔緑区〕などが挙げられました。
『横浜港北新報』によると、菊名は東海金属菊名工場や菊名小学校の予定地が候補に挙げられたようです。小机は駅北側の工場跡地が一時有力視されましたが、1951年4月の地方選挙で「政争の具」とされてしまい、実現しませんでした。その場所は、後に県営住宅となります。
その後、1953年頃から川和案で話が進み、57年に敷地の買収まで行きました。川和は、かつて都筑郡役所がおかれた所で、港北区西部の中心地でした。しかし、ここで話がこじれます。1955年頃から港北区東端の東横線沿線を中心として人口が増加していきます。それに伴って、遠く離れた川和ではなくて、あるいは川和に加えて、東横線沿線に高校を建設すべきとの気運が高まってきました。
川和高校の有力な対抗馬として、1957年頃から浮上したのが新羽高校でした。これも、新羽地区に新設する高校という意味で、現在の新羽高校とは別物です。新羽は、横浜市編入前は新田村大字新羽でしたので、旧村名から新田高校と呼ばれることもありました。1959年4月の地方選挙では、『横浜港北新報』が「高校が新羽か川和かで政争の具となる」と報道しています。1960年12月8日には「市当局が、港北選出県市議の政争のウズにまきこまれて、川和新羽の両高校要望に頭を痛めている」との記事もあります。やがて、2校建設は当然だが川和が先で新羽が後へと意見が収斂していきます。
こうして、新制高校が始まって14年目の1962年10月1日、やっと川和高校が開校しました。翌1963年4月、第1回入学式が開催されました。この年から、翠嵐高校学区は翠嵐を含む横浜北部学区(1980年度まで)へと再編されました。
港北区全域で唯一の公立高校ですから、東横線沿線からも川和高校へ通学する生徒が大勢いたのでしょう。かつては、綱島駅から川和高校行きのバスが出ていたという話を聞いたことがあります。
人口が急増する港北区域では、さらなる公立高校の新設が望まれており、港北高校の誕生に繋がるのですが、それにはまだまだ紆余曲折がありました。その話は次回に。(SH)
太尾小学校の屋上から見た港北高校。その先は、鶴見川の堤防と新羽方面が見えています。破線の楕円については次回に。