閉じる

大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第107回 港北高校の誕生まで ―長い道のり、その2-

2025.10.15

『港北STYLEかわら版!』(令和7年10月号)掲載


 前回の続きです。1962年に県立川和高等学校が開校しましたが、学区域の人口比からすると港北区内にはさらに12校の開校が必要でした。

 当初最も有力視されていたのは、一時期川和高校の対抗馬と目されていた新羽高校案でした。現在の県立新羽高校は、1977年に新羽の丘の上に開校した学校ですが、当時話題になったのは、鶴見川の堤防近くの水田地帯でした(下の地図参照)。

 『横浜港北新報』によると、川和高校が開校準備を進める中、19599月1日、県会市会の東横沿線議員団は、関係者を大綱中学校に集めて、高校敷地買収促進会(仮称)の結成へ動き出します。月内に地主の同意を取り付け、10月には高校敷地を新羽町中之久保下字石地(こくじ)耕地とすることが発表されます。「東横沿線高校敷地買収促進会」は港北農協より買収資金の融資を受け、新羽町石地の敷地1万坪の内約7000坪を同年末までに買収します。県立高校を建てるためには、促進会が買収した土地を横浜市が買い取って、そこへ県が校舎を建てるという手順になります。

 1960年3月には、残金も港北農協から借り入れて4月に支払うことを決めています。ここまでは順調に進みますが、ご承知のように現在ここに高校はありません。この辺りから雲行きが怪しくなっていきました。残金を支払ったとの一部報道もあるのですが、誤りのようです。新羽への工場進出が始まり土地が高値で売れ始めたため、用地買収が7割ほどで虫食い状態のまま止まってしまいます。そのため、市当局は学校用地として買い取ることに難色を示します。結局1963年になって、促進会は買収済みの土地を仮登記のまま公共用地として市に移譲しました。これに一部地主が反発し、翌年から調停裁判にもつれ込みます(1969年に用地を地主に返却)。

 一方、横浜北部では田園都市線が開通し、多摩田園都市の開発が進んで人口が増加したことから、1967年に港北区が緑区と港北区に二分されます。川和高校は緑区内なので、分区された港北区には公立高校が無いことになります。1968年、県教育長は港北区県市議団に対し、高校用地は新羽の係争地を避けて、太尾町八反野か新吉田町神隠の二者択一を迫ります。東横沿線高等学校建設促進会はこれに反発して、県議会に新羽高校建設の請願書を出しますが、県議会はこれを不採択とします。

 新吉田町神隠は第三京浜に近く騒音が激しいことが問題とされ、結局駅に近く静かな環境の太尾町八反野に決まりました。太尾町は、現在の大倉山です。八反野は鶴見川と太尾新道(旧鳥山川)に挟まれた地区です。

 21年間にわたる騒動を経て、県立港北高等学校は196911日に鶴見区の県立鶴見高等学校内に設置されました。太尾校舎の第一期工事が完成して、鶴見から移転したのは翌197043日のことでした。(SH)

JPEG新羽高校予定地の地図(加筆).jpg

四角で囲んである「石地」が新羽高校予定地。前回の写真で、破線の楕円を付けたところです。石地から、鶴見川を挟んで東側に、楕円形で「八反野」と書かれています。そこへは矢印があり、「未買収地」となっています。ここが後に港北高校となります。

(1968年103日付『横浜港北新報』に掲載の、東横沿線高等学校建設促進会請願書の付図に加筆)

大好き!わがまちの記事一覧へ