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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第42回 鳥山川から太尾堤緑道へ

2019.09.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 狐に化かされそうだった鳥山川は、大倉山の田畑を潤す貴重な用水路でした。しかし、河道が狭くて氾濫を繰り返すので、昭和30年代に、上流の横浜アリーナの近くで鶴見川に合流させました。周辺では市街地化が始まっており、昭和44年に港北高校が、昭和51年には太尾小学校も開校します。
 河道の跡地は太尾排水路と呼ばれ、大雨の時の排水に使われましたが、下水道が整備されると、昭和47年に埋め立てられて遊歩道になりました。その後公園として整備されて太尾堤緑道と名付けられたのです。
 実はこの太尾堤緑道の部分は、江戸時代の寛文年間(1661~72年)に掘られた人工の河道でしたので、鳥山川を元の形に戻したということも出来ます。この間の経緯は、港北高校の社会科研究部が昭和59年に作った『太尾町の歴史 後編(江戸時代から現代)』に分かりやすくまとめられています。
 大倉山駅前から新羽へ向かってバス通りを西へ進むと、太尾堤緑道と交差します。そこには、緑道を遮るように、ちょっと変わった形をしたガードレールがあります。その柱をよく見ると東南の角(『わがまち港北3』268頁掲載写真の左手前)には「昭和33年6月竣功」と書かれており、東北の角は「太尾上橋」、西南の角に「ふとおかみはし」と書かれています。これにより、ガードレールが橋の欄干だったことと、緑道部分が元は川だったことが分かります。(S.H)      

付記
写真では分かりにくいと思いますが、錆び付いた鉄製の欄干が61年の歳月を物語っています。道路の先は新羽橋です。新羽橋は、昭和26年に木橋として架橋され、交通量の増加に伴い、昭和32年にコンクリート橋になりました。この太尾上橋も同様に架け替えられたものと思われます。

(2019年9月号)

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