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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第63回 忘れられた作家? 内山順(したごう)

2021.10.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和3年10月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前回ご紹介した綱島街道の新道ですが、昭和30年代前半、国は第三京浜道路にする事業計画を模索します。しかし上手く行かず、第三京浜は山の中に全くの新道を通して昭和40年に開通します。
 昭和32年刊行の内山順『乞食の親方』を読むと、菊名の人たちは綱島街道を俗に"第三京浜国道"と呼んでいたと記されています。
 皆さんは、この内山順という作家をご存じですか?
 本業は港湾運送業会社の経営者でしたが、自身は歴史や地域の伝承に関心が深く、休日には作家として各地を訪れ、歴史紀行を執筆し雑誌に連載していました。それを随筆集として全9冊刊行しており、横浜市中央図書館の郷土作家コーナーには7冊が所蔵されています。
 しかし、Webで内山順を検索しても情報がほとんど見つかりません。今年で没後53年になりますが、忘れられた作家でしょうか?
 どのような作家だったのか、まず略伝をご紹介しましょう。
 内山順は明治23年生まれで、8歳の時に宣教師をしていた父と死別し、13歳の時に母が末の弟を連れて再婚しました。長男の順は次男と祖母宅へ預けられます。厳格な祖母と意地悪な従兄弟のいる家で苦労を重ねます。学校を出た内山順は文筆業への憧れを封印して、弟を養うため横浜税関に就職し、弟たちと自活を始めます。
 25歳の時に内国通運(日本通運の前身)横浜支店に転職しますが、すでにその前から横浜生まれの作家長谷川伸(明治17~昭和38、股旅物で有名、池波正太郎の師)と親交を持っていました。まだ新聞記者だった長谷川伸が毎朝新聞から都新聞に転職するとき、文筆家への近道だと誘われて一緒に新聞記者へ転職しようとします。事情があってすぐに内国通運に戻りますが、大正6年、27歳で独立し山根海陸組(現山根運輸株式会社)を設立します。
 昭和5年、会社経営者となっていた内山順は、分譲が始まって間もない東急の菊名分譲地(錦が丘)に転居し、昭和43年に亡くなるまで、錦が丘に住み続けました。この間多くの文化人と交流を持ち、特に前述の長谷川伸や、『人生劇場』で有名な作家尾崎士郎(明治31~昭和39)とは生涯深い絆に結ばれていました。尾崎家とは家族ぐるみの付き合いで、尾崎士郎は内山順にペンネームの「雷軒」を贈り、内山が昭和31年66歳にして随筆集の刊行を始めると序文を寄せたり、全9冊の半数には題字も書いています。
 この内山順が菊名周辺や港北区内を実際に踏破して書き留めた随筆には、昭和30年代の地域の様子が活き活きと描き出されています。実体験に基づいた興味深い逸話や、地域史の他の文献では採録されていない昔話などは、次回にご紹介しましょう!(S.H)

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内山順の著作

(2021年10月号)

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