第65回 新発見!『楢原萬拙歌集』
- 2022.01.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年1月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
わが庵は大倉山の山つづき 遙か未(ひつじ)に富士の見ゆ丘
この短歌には、「地を望岳台と名ずけて」との詞書が付けられています。庵の主とは、そして望岳台とはどこでしょう。
この短歌は、大曽根の冨川薫さんからご寄贈いただいた『楢原萬拙歌集』(写真参照)から引用しました。岩波文庫に似た体裁のこの本は、昭和35年の刊行で、奥付によると著者は楢原正章、萬拙は号(ペンネーム)です。編者は友人の柳広太。柳は、楢原の短歌5,000首余から2,248首を選び、萬拙翁歌集刊行会の名で発行しています。
楢原正章は、明治22年頃広島県の大崎上島に生まれ、36歳の頃に司法保護大日本教化会を設立し、理事長になります。今の保護司のような活動をしており、法曹界に多くの友人がいました。
楢原は70歳台前半の昭和35年までに大倉山の尾根の上、大曽根台との町境へ転居してきました。周囲はまだ宅地化が始まったばかりでした。富士山がよく見える南西側の空き地を、勝手に望岳台と名付けますが、その名はなんと昭和36年の住宅地図に掲載されています。
転居してきた時の楢原は、喉頭癌で声帯を摘出した後だったようです。声を失った楢原は、趣味の短歌とこの歌集で他者と交流を図っていたのかも知れませんね。この本を所蔵していたのは、大曽根の冨川善三氏です。善三氏は大倉山天然スケート場の経営者として知られていますが、咫尺(しせき)の号を持つ俳人でもありました。近所に住む趣味人同士として交流が生まれ寄贈を受けたものと思われます。
住宅地図で楢原の家を確認出来るのは、昭和43年までです。この頃逝去したのでしょうか。巻末近くに下記の歌があるので、大倉邦彦が亡くなる昭和46年までは住んでいたのかも知れません。
大倉精神文化研究所(故大倉邦彦氏の遺業)の塔を望みて
わが庵の窓ゆ東に仰ぐかな 大倉山の高き塔(あららぎ)
楢原については、いくら調べても僅かな情報しか見つかりません。しかし、本書の短歌と1300を越える詞書を読んでいくと、長男の戦死、家族の北海道疎開、郷里大崎上島のこと、多様な知人との交流、全国各地への旅行など、彼の人生の一端が鮮やかに蘇ります。
楢原は晩年の10年余りを大倉山で過ごしました。この本には、その間に小机・綱島・大曽根・大倉山等を詠んだ歌が25首程、それらしい歌を含めると40首以上が掲載されています。
この本は、全国の図書館等にありません。非売品として関係者に配布されたのみで、公的機関には納められなかったようです。ここで紹介することにより、この本の存在と著者が生きた証しを後世に残したいと思います。本書は、いずれ大倉精神文化研究所の附属図書館で閲覧いただけるようになります。(S.H)
左:『楢原萬拙歌集』表紙 右:大倉山から見た富士山
(2022年1月号)