第82回 「百年後の横浜」―その2―
- 2023.07.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年7月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回の続きです。100年前、横浜貿易新報社の本社ビルは大岡川の弁天橋近くにありましたが、関東大震災で倒壊しました。92年の歳月を経て、2015年に新市庁舎建設の工事現場地下からその社屋の基礎が発見され、話題になったことがあります。ちょうどその頃、「百年後の横浜」を調べていた筆者は、浜野久発見の物語との類似性に驚いた記憶があります。
社屋が倒壊した横浜貿易新報社は、新聞発行の機能を失いました。臨時第1号は記事がわずか1面だけの新聞でしたが、それですら発行できたのはなんと9月13日のことでした。
横浜の市街地は地震で壊滅的な被害を受けました。有名な話ですが、震災がれきを処分するために港の一部を埋め立てて造ったのが山下公園です。1930年3月15日にオープンしました。宮野専太郎が「百年後の横浜」の連載を開始するわずか2ヶ月半前のことです。この山下公園を会場として復興記念横浜大博覧会が開かれるのは、さらに5年後の1935年のことです(写真参照)。
第51回で紹介した「神奈川県鳥瞰図」が、復興を遂げた神奈川県を紹介するために描かれたのは1932年です。「百年後の横浜」は、まさに復興途上の様子を眼前にしながら100年後の発展を予想していたのです。
作者の宮野専太郎は、1923年設立の横浜港調査会に係わり、資料集3冊の編纂をしていた人物でした。その知識を生かして、100年後の横浜港が約6倍の広さ(以下、太字は作中の表記、少し読みやすくしました)となり、3ヵ所の自由港区を持ち、防波堤は2ヵ所、3ヵ所の大桟橋を有する巨大港に発展した様子を詳しく描いています。
市街地では、海岸通りに多くのホテルが建ち並び、根岸高台は高級住宅街となっています。自動車時代となり、1920年代の都市交通機関の中心を為していた市内電車(市電)は全て地下鉄道(地下鉄)になっています。よく想像したものですね!
浜野は小夜子の案内で、新山下橋を渡った先、新山下町10万坪(約33㏊)の土地にある外国人向けの万国国際ダンスホールを見学します。連載5回にわたって詳述していますが、かつて横浜にあったチャブ屋(外国船員向け売春宿、1階はダンスホールだった)、市内各所のバーやカフェーなどを集めて、外人専属の享楽場として特化したものでした。
小説内の新山下橋は空想の産物で、1979年に完成した実在の橋とは別ものです。新山下町10万坪の土地も空想の産物で、作者宮野専太郎は戦後に造られる山下埠頭のようなものをイメージしていたようです。
筆者がこの連載小説の存在に気付いた2015年頃、巷ではIRの誘致問題が大きく騒がれており、日本人の入場制限も話題になっていました。横浜市の計画では、山下埠頭(47.1㏊)にカジノを含む国際的なリゾート施設を誘致しようとしていたので、世が世ならば横浜IRが造られていたかも知れません。売春と賭博の違いこそあれ、この小説の予言性に驚かされます。筆者がこの小説に注目した最大の理由はこれでした。
100年前の港北区域については次回に。(SH)
【写真】1935年の横浜、まだ空き地が目立つ山下公園周辺
(部分、『復興記念横浜大博覧会要覧』より、大倉精神文化研究所蔵)
(2023年7月号)