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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第83回 「百年後の横浜」―その3―

2023.08.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年8月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 新聞小説「百年後の横浜」の3回目です。

 横浜の各地を見学して回る浜野久と大海原小夜子の二人ですが、小説をいくら読み返しても港北区域に関する記述は見当たりません。

 なぜでしょうか。それは、1923年の震災当時、港北区域はまだ横浜市ではなくて、橘樹郡と都筑郡に属していたからでしょう。横浜市の震災の記録を見ても、港北区域のことは書かれていません。1927年になると大綱村が市域に編入されますが、小説が執筆された1930年当時新田村や日吉村などはまだ郡部でした。残念ながら、現在の港北区域に限定した被害の全容はこれまで集計されたことが無いようです。

 そこで、筆者自身で震災被害を推計してみました。港北区域は当時の人口が約18,000人で、戸数は約2,600戸、その約75%の家が全壊または半壊の被害を受け、死者・行方不明者が10名程度だったと思われます。推計に止まるのは、記録が橘樹郡と都筑郡に分かれていて現存する資料が少ないことと、市域編入時に村を二分した日吉村や、神奈川区と港北区に分かれた城郷村、村の一部のみが港北区に編入された旭村、後年に行政区の再編で町境を変更した新羽町などがあるために、正確な計算が出来ないからです。

 小説に話を戻すと、少し関連しそうな記述は、「1960年、横浜市の鶴見川上流に絹布紡績の大工場が竣工」くらいでしょうか。後年の市域拡張を想定した記述ですが、上流とはどこを指しているのでしょうね。

 港北区域でも昔は養蚕が行われていましたが、紡績工場はありませんでした。作者宮野専太郎は、横浜市の鶴見川上流に紡績工場が造られると予想したのです。しかし、現実には第二次世界大戦と化学繊維の発明により養蚕業は衰退しました。港北区域は、京浜工業地帯の後背地として、戦後に中小の工場が進出してきましたが、現在は主に住宅地となっています。

 さて、物語は終焉を迎えます。

 2023年の横浜を見学して回るうちに、小夜子は浜野に惹かれていきます。一方で、浜野は21世紀に蘇った20世紀人として疎外感に苛まれるようになります。一人用飛行機(2025年の大阪万博を目指して開発中の空飛ぶ自動車を連想させます)の操縦を覚えた浜野は、ある日独りで東京湾を散歩したいと飛び立ちますが、そのまま帰ってきません。

 小説「百年後の横浜」は、以下の言葉で幕を下ろします。「浜野は無事に発見されたであろうか、或はその儘行方不明となってしまったのであろうか、......読者諸君のうちにはそれを知りたい人もあるであろう。しかし筆者(宮野専太郎)は彼と共に「百年後の横浜」を略(ほぼ)視察し終ったように思うのである。
 浜野と小夜子との運命が、その後どうなるか、それは読者諸君の想像の中に、活々と動くであろうと思えば、筆者が限りなき愛をこめて書いて来た浜野と、小夜子との後日を描いて、この物語りを「悲劇」に終らせることも、「喜劇」に終らせることも、それは忍びないことなのである。」(少し読みやすくしました)

 後日談は、どうか読者の皆さまが紡いでください。(SH)

(2023年8月号)

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