閉じる

大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第85回 綱島街道拡幅と大綱小学校

2023.10.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年10月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 謎の人骨を追って、前回の続きです。

 次に、西照寺の本寺(親寺)にあたる大乗寺の記念誌『大乗禅寺』を調べてみると、漆原猛雄氏の「大乗寺と漆原家」と題した回想録がありました。これによると、漆原12軒の墓地が西昌寺(西照寺のことか)という大乗寺の末寺の境内にあったが、綱島街道の新道(第62回参照)用地として買収され、移転を余儀なくされ「関係者は総出で墓石をリヤカーで運び、骨を拾って現在の場所(大乗寺墓地)に移転を完了させるまで、大変な労力を要したと想像される」と記しています。

 『港北百話』では、サイショウジの寺号は、同じく大乗寺末の綱島東照寺と対応するものとして名付けられたと記しているので、上記西昌寺は西照寺のことでしょう。西照寺は、前回書いたように明治初期から中期頃には廃寺になっていたらしく、跡地にはその後も境内社だった妙義神社や漆原家墓地などが残っていたのですが、新道の用地となり、昭和10年代前半に墓地を移転し、結局妙義神社だけが今も残っているのです。

 実はその後日談があります。綱島街道の大倉山交差点、その南西側にはかつて大綱小学校がありました(写真参照)。漆原猛雄氏の回想録では、「手狭な校庭を拡張するため南側の土地700坪を買収したが、この埋め立てに墓地の残地の土砂を使用したところ、丁寧に骨を拾ってあったにも拘わらず多くの人骨が出てきた。これ等はまとめて無縁墓地に埋葬された」と書かれています。大綱小学校の南側の土地は田んぼでしたので土地が低く、校庭にするために客土しました。その土が、西照寺の元墓地だったところの土だというのです。地元では結構話題になったらしく、古老の方に伺うと、人骨は木製のリンゴ箱3箱分程も出てきたのだそうです。お問い合わせの人骨は本当でした。

 大綱小学校の歴史をひもとくと、1952年12月1日に校庭の拡張をしているので、この時かと思われますが、『神奈川新聞』を調べても関連記事は見つかりませんでした。

 さて、こうして校庭を拡張した大綱小学校ですが、今はもう綱島街道の脇にはありません。綱島街道は、東京と横浜を結ぶ大動脈の1つとして、折からのモータリーゼーションの波に乗り、車の大渋滞が発生するようになりました。一方で、1964年の東京オリンピックに合わせて、東海道新幹線が大綱小学校のすぐ西側に開通しました。自動車の騒音と排気ガスに加えて、新幹線の騒音まで受けることとなった大綱小学校では、「特に、道路より一だんと低い校庭に自動車の排気ガスが流れこみ、草木が少しも育たないありさまでした」(『大綱今昔』より大久保正治校長の記)。通学路の交通事故も心配です。そこで、1964年頃から子ども達の安全と学習環境を改善するために移転の検討が始まり、1967年ついに南西方向へ500mほど移転しました。公害で学校を移転した例は全国でも珍しいのではないでしょうか。(SH)

1966年の国土地理院空中写真(大綱小学校周辺トリミング).png
【写真】国土地理院の空中写真(1966728日撮影)に加筆しました。左端の空き地では9月から新校舎建築が始まります。環状二号線は大豆戸交差点の東側がまだ開通していません。

(2023年10月号)

大好き!大倉山の記事一覧へ