第89回 破壊サレタル古墳を探す
- 2024.03.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和6年3月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回からの続きです。
大倉邦彦が書き残した「(大倉精神文化研究所に)隣接の古墳」とは何でしょうか。ここで、第86回を思い出してください。研究所本館(現大倉山記念館)は、太尾町(現大倉山)と大曽根町(現大曽根台)にまたがって建設されていました。つまり、隣接地を探すには両方の町を調べる必要があることになります。
地域の遺跡分布を知るには、横浜市教育委員会が2004年に作った『横浜市文化財地図』があります。その地図から大倉山・大曽根辺りを見てみましょう(下図参照)。現在はウエブ版が公開されています。
大倉山には、遺跡番号188の研究所内遺跡以外にも141、144、145の3ヵ所、大曽根には142、143、187の3ヵ所の遺跡が確認出来ます。個々の遺跡についての検討は省略しますが、戦後に発見されたとか、遺物が表面採集される散布地であるとか、遠く離れているとか、どれも隣接の古墳とは思われません。そこで、地域の文献や専門誌などを探してみました。すると、大曽根には文化財地図に載っていない遺跡がいくつもあることが分かりました。第76回で紹介した口絵写真の埴輪もその調査成果です。
1887年に山崎直方と坪井正五郎が大曽根で古墳を探求し、「血の池の傍らなる丘脚に前部の壊れた横穴」を見つけたことを、『東京人類学会雑誌』3巻21号で簡略に紹介していました。血の池は大曽根第二公園になっており、丘脚とは血の池の西側にあった通称「大谷戸(武田谷戸)」の丘を指しているようです。大谷戸は北に開けており、その西側斜面に沿って東横線が通っています。東横線は1926年に開通しますが、1930年に森本六爾が来た時には破壊サレタル古墳がまだあり(地図の赤丸辺りか)、石碑が建っていたのでしょう。ここなら「隣接の古墳」といえるでしょうし、森本達が帰り際に見学したとしても頷けます。しかし、今では何も残っていません。
実は、東横線は1940年頃に大谷戸の西側斜面を削って線路の付け替え工事をしています。森本が書き留めた破壊サレタル古墳は、この時に全て削られてしまったのではないか、筆者はそんな想像をしています。発見が早すぎたために考古学者による詳細な学術調査がなされず、現存もしていないことから、もはや確認のしようがありません。唯一、森本のメモのみが古墳と太刀不動尊の存在を現代に伝えているのです。(SH)
『横浜市文化財地図』より港北区3、4、5、6の地図を合成し加筆。