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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

大倉山駅

2022.03.29
開業

大倉山駅は、かつては地名の太尾を取って太尾駅と呼ばれていました。

大正15年(1926))2月14日、東京横浜電鉄(現、東急)の神奈川線(丸子多摩川~神奈川)が開通し、太尾駅もその時開業しました。地元の古老黒川太郎氏(86歳)の話によると、大曽根と太尾で駅の誘致合戦をして太尾に決まったそうです。当初はホームだけの無人駅で、駅舎はありませんでした。改札口は大倉山に登る坂道の途中、線路の脇ににありました。

第1号定期券

黒川太郎さんは、当時、三ツ沢の県立横浜第二中学校(現、横浜翠嵐高等学校)在学中で、自宅から自転車又は徒歩で通っていました。徒歩だと1時間半もかかっていたのが、開業後は反町駅まで電車通学となり、大変楽になったそうです。この黒川さんが太尾駅乗車の定期券第1号使用者になりました。当時の太尾村は純農村地帯、人口は700人程で、駅の利用者はほとんどおらず、1両だけの車内には朝の通学時間帯でも乗客は10名程度でした。

駅名の変更

その後、昭和2年に渋谷線(渋谷~丸子多摩川)が開業し、昭和4年からは、太尾町の山の上に大倉精神文化研究所の建設が始まり、利用者もしだいに増加しました。この山にはそれまで名前がありませんでしたが、研究所建設に伴い、通称で大倉山と呼ばれるようになり、昭和7年(1932)3月31日、渋谷~桜木町間の東横線全線開通に合わせて、駅名が太尾駅から、現在の大倉山駅へと改称されました。

やがて、小さな駅舎が作られ、駅員が1名勤めるようになりました。小森嘉一氏(元研究所員、91歳)の話によると、夕方、渋谷から東横線に乗り多摩川を越えると降りる人ばかりで、綱島あたりまでくると車内には数人の乗客しか乗っていなかったそうです。数年後には現在のようにホームの下、駅前通りに面して改札口が作られました。

東横線は、近年まで鶴見川の氾濫により止まることがよくありましたが、特に昭和13年の大洪水では、大倉山の駅前で大人の胸あたりまで水没したそうです。この時、記念館の塔屋の上から四方を撮影した写真が沿革資料に残されています。ちなみに、この時、付近一帯の家屋は床上あるいは天井まで水浸しとなり、町内23家族90余名が大倉精神文化研究所神風館(武道場)に、6月30日から7月10日までの11日間避難しました。

現在

現在の駅舎は、昭和59年に造られたものですが、高架下を消防車が通りにくいので、この時に線路を少し上にあげました。現在の乗降客は、1日平均50,682名(平成10年度)になっています。

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