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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第111回 近くて遠い鎌倉への道

2008.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


綱島東の夏目さんより、港北区内の鎌倉街道について知りたいとの依頼がありました。第59回で、区内には鎌倉街道下の道(しものみち)が通っていて、駒が橋(こまがはし)や琵琶橋(びわばし)はそこに架けられていた橋の名前であると書きましたが、もう少し説明しましょう。

鎌倉街道の下の道は、「しもみち」「しもつみち」ともいいます。鎌倉と各地を結ぶ幹線道路の1つで、東京を経て千葉や埼玉方面へ行く道です。『港北区史』では奧大道(おくだいどう)ともされています。

三ツ沢公園(みつさわこうえん)、神大寺(かんだいじ)から区内へ入り、岸根公園、篠原八幡神社脇を通り、菊名駅JR改札口西側のガード下をくぐります。駅を斜めに抜けて、旧綱島街道に入ります。菊名神社、吉田家長屋門(ながやもん)前を過ぎ、市之坪池跡(いちのつぼいけあと)の東側から大曽根第二公園、大曽根商店街を抜け、綱島橋(昔、大綱橋の下流側にあった)を渡って綱島駅前に出ます。バス通りから綱島市民の森を回り込んで来迎寺(らいこうじ)、飯田家長屋門(いいだけながやもん)前を通り、田の中を抜けて金蔵寺(こんぞうじ)、駒林神社(こまばやしじんじゃ、西光寺、西量寺を通る説あり)、駒が橋を渡り、川崎市中原区に入り、下小田中(しもこだなか)を経て武蔵中原駅、丸子の渡し(まるこのわたし)へと続くといわれています。これが有名なルートです。大倉精神文化研究所編『港北の歴史散策』、北倉庄一『中世を歩く』、芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅』などはこの説を採用しています。このルートも細かく見ると研究者により少しずつ異なります。旧綱島街道ではなく東側の尾根道を通るという説もあります。この方が古い道だと思われます。

別の説もあります。『港北区史』には上記とは別の6ルートが紹介されています。その6番目が、『廻国雑記(かいこくざっき)』を著(あらわ)した道興准后(どうこうじゅごう、第78回参照)の歩いた道です。道興准后は、駒林(こまばやし)から新羽(にっぱ)を経て帷子の宿(かたびらのしゅく)へと向かいます。新羽新道(にっぱしんどう、新道といいますが、古い道です)を通って亀甲橋(かめのこばし)、三会寺(さんねじ)へと歩いたとする説で、これも鎌倉街道といわれています。道興准后は、最初に示したルートで、綱島橋から旧綱島街道を通ったとする説もあります。

さて、鎌倉時代の港北区域といえば、佐々木高綱(ささきたかつな)が鳥山(とりやま)に屋敷を構えていたといわれていますし(第90回第91回参照)、佐々木泰綱(ささきやすつな)は延応元年(えんおうがんねん、1239年)に「小机郷(こづくえごう)鳥山等」の荒地の水田開発を命ぜられています。小机や鳥山から鎌倉街道が通じていたことも考えられます。探してみると、昭和15年(1940年)に史蹟名勝天然記念物保存協会神奈川県支部が小机地区の史跡めぐりをした時に配られた小机城址(こづくえじょうし)の手書き地図(県立歴史博物館所蔵)がありました。その地図には、小机城本丸から南に向かう小径(こみち)に鎌倉街道と書かれています。小机城の築城は鎌倉時代とする説と室町時代とする説があります。鎌倉時代に築かれたとすれば、鎌倉への道があってもおかしくはありません。

港北区内を南北にはしる古い道は、どれも鎌倉街道の候補になっていますし、区内を通らない下の道ルートもいろいろと主張されています。しかし、横浜市教育委員会編『横浜の古道(こどう)』は、鎌倉街道に関する先行研究は多いが定説といえるものはないこと、中世の道を調べるためには資料がほとんど無いことを理由に、地図へルートを落とすことを断念しています。

『港北区史』でも、記録や文書からは大まかな通過地点が分かるだけであり、正確な場所を地図上に点あるいは線として示すのは困難な場合が多いと指摘しています。

その通りなのですが、鎌倉街道とは、「いざ鎌倉」の道だけでなく、室町時代や江戸時代に造られた道、あるいはそれらの支道(しどう)・枝道(えだみち)・間道(かんどう)も含めて総称することもあります。あまり厳密に考えなくてもよいでしょう。800年も前の道路ですから、その後大きく姿を変えていても当然ですし、港北区域は都市化に伴い道路の拡幅(かくふく)や新規道路の建設が進み、古道を見付けることは困難になっています。都市化が進む以前の、古い地形図に描かれている道路を調べて、そこを歩いて見ましょう。鎌倉武士や昔の旅人が歩く姿を想像できれば、散策の達人です。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2008年3月号)

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