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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第165回 海軍水路部の疎開 ―終戦秘話その16―

2012.09.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


先月号で紹介した「日吉をガイドする講座」(日吉台地下壕保存の会主催)では、海軍気象部について詳しい方が大勢来られ、さまざまな情報を教えて頂きました。

情報のひとつは、海上保安庁の海洋情報部に、戦時中に大倉山へ水路部の資料を疎開(そかい)したことが書かれた文書があるというものでした。海洋情報部は、文字通り海洋情報の調査・提供を任務としている部局で、海軍の水路部を前身としています。海軍気象部はもともと水路部の一部門でしたが、昭和19年(1944)4月に水路部から独立したものです。

海洋情報部の資料提供窓口である海の相談室へ行ってみると、確かに資料がありました。『参考品目録』は、太平洋戦争の戦況悪化に伴う水路部資料の疎開に関する文書を綴ったものです。その中にある疎開実施の通知を見ると、疎開先として示された場所は「大倉精神文化研究所書庫」となっていました。資料の疎開は昭和19年11月と12月の2回行われ、260点余りの資料が運ばれたようです。

この2回の資料搬入について、研究所の日誌には記述がありません。しかし、終戦後の昭和20年(1945年)10月12日に「水路部千野純彦(ちのすみひこ)氏荷物ノ件ニテ来所」という記載があります。そして同月15日と翌21年1月14、16、17日には、水路部が荷物の搬出を行ったことが書かれています。これらは、てっきり研究所に移転していた気象部分室に関する記述だと思っていましたが、日誌の記述は「水路部並(ならび)ニ気象ヨリ荷物運搬ニ来(きた)ル」など、水路部と気象部が書き分けられていることに気がつきました。どうやら戦時中の研究所では、気象部の移転とは別に、水路部の資料疎開が行われていたようです。

海洋情報部での発見は、大倉山への資料疎開の話だけに終わりません。気象部分室が大倉山に移転した(第44回参照)のとほぼ同じ頃、水路部は日吉に分室を設置していました。『慶應義塾百年史』(1964年)を見ると、昭和19年10月1日から工学部ロッカー室120坪を海軍水路部に貸与(たいよ)したことが書かれています。これは『港北区史』にも引用されていますが、日吉の水路部の存在は、他の海軍施設や地下壕の影に隠れてしまってか、これまであまり注目されてきていません。

水路業務100年を記念して刊行された『日本水路史』(1971年)では、日吉の水路部について「10月には活版関係を主体とする疎開工場を神奈川県日吉台の慶応義塾校舎内に設け、石木田忠蔵技手(ぎしゅ[ぎて])ほか17名を派遣して日吉分室と呼んだ」と書いてあります。

日吉分室があったのは、藤原工業大学を前身とする慶應義塾大学工学部の第13号棟校舎で、ここは機械工学科専用棟でした。場所は、現在の日吉キャンパスの第4校舎B棟のあたりでしょうか。慶應の百年史によると、第13号棟には更衣室・製図室・青写真室などがありました。ロッカー室は更衣室を指すのでしょう。水路部の移転は、図誌等の印刷・供給に製図室などの設備が使用できると見込んでのことだったのかも知れません。

日吉分室は、昭和20年4月15日から16日にかけての空襲で全焼しています。日吉の慶応はこの時、工学部校舎の8割を焼失しました。『水路部沿革史第4巻』(海上保安庁水路部、1951年)には、日吉分室の具体的な被害状況が書かれており、藤原工大第13号棟校舎(建坪422㎡)全焼、焼失資材は活版印刷機3台、附属機械類4台、印刷用紙15,000枚(海上保安庁水路部編の『水路部80年の歴史』などでは1,500枚と記載)、活字約1,000貫とあります。しかしこの損害は、水路部の業務には大きな支障を与えずに済んだようです。

港北区域には、日吉の水路部の他に、実態がよく知られていない海軍施設として師岡(もろおか)の海軍省図書庫があります。ここは、『横浜市史Ⅱ』では海軍大学図書庫と書かれています。また、研究所には、封筒の差出人が「海軍施設本部師岡施設工事々務所」「海軍東施第二部隊師岡分遣所(ぶんけんしょ)」などと書かれた図面借用証がありますが、師岡についての情報は多くはありません。この師岡の施設に関しても発見がありました。終戦時に海軍気象部の総務部長兼第一課長で、戦後には残務処理班の班長を務めた大田香苗(おおたかなえ)大佐が残した手記に、師岡のことがほんの少しだけ書かれています。大田氏の手記「海軍勤務回想」は、海軍の気象業務について書かれた唯一ともいえる貴重な資料です。この中には、大倉山気象部と大倉山海軍施設部(港北区師岡町3)にそれぞれ海軍の専用電話線が布設(ふせつ)されたことが書かれています。非常に断片的な情報ではありますが、新しい発見は今後の調査に期待を抱かせます。

終戦から67年が経過しましたが、まだわかっていない事が沢山あります。しかし知られていない資料や活用されていない資料もそれと同じぐらい沢山ありそうです。さらなる事実の解明と新資料の発見を願いつつ、筆を擱(お)きます。

記:林 宏美(大倉精神文化研究所職員)

(2012年9月号)

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