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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第44回 終戦秘話-その5- 大倉山と海軍気象部

2002.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲の時、大倉山で戦災に遭(あ)われた鋤柄敏子(すきがらとしこ)さんのお話をホームページ(http://homepage1.nifty.com/ASIBI/michikusa4.htm、リンク切れ)で見つけました。皆さんも是非ご一読下さい。この鋤柄さんのお話の中にも出てきますが、大倉山の図書館(大倉精神文化研究所のこと)には戦時中に海軍気象部が入っていました。

昭和19年(1944)になると、日吉台の下に海軍の地下壕が掘られます(第20回参照)。しかし、これだけではありませんでした。大倉山には、海軍気象部が来ました。近年は日吉台地下壕の研究が盛んですが、海軍の機能移転計画の全容解明を計る必要があります。

さて、海軍気象部は、大倉精神文化研究所に対して4月10日付けで「予想セラルル敵空襲ニ対スル応急対策トシテ」研究所借用の照会をしています。研究所が14日付けで承諾の回答をしたことにより、18日には担当者が来訪、5月20日から24日には機械類の取り付け作業をしています。そして、6月6日には7名の係員が来所して執務を一部始めます。

8月20日、海軍気象部は研究所本館の借家契約を結び、図書館書庫と一部の部屋を除いて本館は全て海軍気象部が使用することになりました。研究所は8月11日より附属寮(富嶽荘、ふがくそう)に事務室を移していましたが、その富嶽荘も20年3月1日に海軍気象部と借家契約を結び、3月11日より海軍気象部に貸与されました。

ちなみに、家賃は本館が1ヶ月5,000円、富嶽荘が300円でした。海軍では、火災保険の加入状況調査もしています。戦争末期ですが、電気・水道代は海軍が支払い、税金や火災保険料などは研究所側が支払うことなどが細かく定められています。契約書を読むと、「海軍契約規程」「同施行手続」が存在し機能していたことも分かります。添付書類の備品リストには、机やイスに始まり寝具、傘立て、風呂桶、スノコ、洗面所鏡に至るまで個数が詳細に書かれています。

昭和19年8月31日に海軍気象部員百余名が下検分に来所し、9月1日より移転してきました。気象情報は重要な軍事機密でしたので、戦時中に気象部が何をしていたのか、研究所側には資料が全くありません。10月13日からは研究所本館への出入りも制限されます。気象部員と研究所員との交流もほとんどありませんでした。

当時の日誌からわずかに分かるのは、昭和20年4月15日に海軍気象部が防空壕建設の鍬入式(くわいれしき)をしたこと、翌々17日に富嶽荘の浴室使用日を気象部と相談し、研究所は毎週火曜、土曜に使用することになったことなどだけです。

昭和20年8月、終戦を迎えると、海軍気象部は31日付けで借家契約の解約をしています。しかし、荷物の整理には日数を要し、翌年1月までかかりました。図書の搬出を終えたのは4月でした。大半の装備は中央気象台と運輸省水路部が引き取りますが、机や鍋などの一部は研究所に払い下げになっています。未使用の気象観測用紙も廃棄されました。研究所には、「一般気象海象記録(水路部)」「気象特二号(昭和十九年六月水路部印刷)」「気象特八号」「気象特九号」「測風気球観測計算用図」など各種用紙が多数現存しています。研究所では、その裏紙を昭和20年頃の事務書類に使っていました。また、研究所には古い16ミリフィルムが多数保存されていますが、その中の3巻は、雲上を飛ぶ飛行機内から雲を撮影したものです。撮影者、日時、場所、目的などは一切不明ですが、小森嘉一(こもりよしかず)旧所員の話によると海軍気象部が戦後の撤収のどさくさで置き忘れたものではないか、とのことでした。

この海軍気象部を題材に、戯曲が作られます。その話は次回に...。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2002年8月号)

  • 【付記1】 海軍気象部で働いていた方から聞き取り調査をすることが出来ました。その成果については、第69回を御覧ください。
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