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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第185回 大倉山地区 -地域の成り立ち、その1-

2014.05.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


港北区域が13地区に分けられることは第174回で紹介しました。各地区の様子は均一ではなく、歴史を踏まえた個性があり、地区のまとまりがあります。そこで、今回から13地区の歴史と特徴を50音順で順番に紹介していきます。50音順なら第1回大曽根(おおそね)地区になるはずでしたが、今年(2014)4月1日付けで、太尾(ふとお)地区が大倉山(おおくらやま)地区に改称されましたので、大倉山地区(大倉山一丁目から七丁目)から始めましょう。

地区名が改称された理由は、町名変更を受けたものです。現在の大倉山一丁目から七丁目は、元は太尾町といい、平成19年から21年(2007~09年)にかけて町名変更されました。太尾町は、昭和2年(1927年)に横浜市へ編入されるまでは大綱村大字太尾(おおつなむらあざふとお)、明治22年(1889年)に大綱村が出来る以前は、江戸時代からたち橘樹郡太尾村(たちばなぐんふとおむら)と呼ばれていました。

「太尾」の地名は、地形から名付けられた歴史の古い地名です。師岡(もろおか)方面から鶴見川の手前まで続く丘陵部分が、動物の太い尾のような形に見えたことから「太尾」と名付けられたといわれています。丘の上からは、弥生(やよい)時代の遺跡が発見されていますし、字(あざ、地域の名前)として残っている「市ノ坪」(大倉山一丁目と三丁目の一部)、「五丁前」(二丁目の一部と五丁目)などの地名は、律令(りつりょう)時代の条里制(じょうりせい)の名残(なごり)といわれています。

「大倉山」の地名は、大倉邦彦(おおくらくにひこ)が大倉精神文化研究所を建設していた昭和7年(1932年)に、東急電鉄が太尾駅を大倉山駅に改称したことに始まります。その後、駅周辺の地域を大倉山と呼ぶようになり、商店街の名前にもなりました。こうして80年近くが過ぎ、広く認知され、住居表示の実施に合わせて、町名となりました。

大倉山地区は港北区域のほぼ中央に位置しています。北東は丘で大曽根台と接し、南側に平地が開けて、大豆戸(まめど)、菊名(きくな)と接しています。東部には綱島街道、新幹線、東横線が走り、西は鶴見川に接しています。

治水対策が施される以前の鶴見川は、氾濫(はんらん)を繰り返していました。そのため、昔は山裾(やますそ)に沿って、微高地に農家が点在するだけでした。水没しやすい平地部分に家は無く、農地が広がるのみで、小机まで見渡せたといいます。鶴見川は水害を引き起こしましたが、同時に上流から肥沃な土壌ももたらしました。太尾堤緑道(元は鳥山川[とりやまがわ])と鶴見川との間の土地(堤外地)は、「八反野(はったんの)」と呼ばれ、とても肥沃な畑地でした。この辺りでは、「狐火(きつねび)」や「狐の嫁入り」を見たという話も残されています(第95回参照)。

太尾村は細長い村で、北西へ向けて上(かみ)・中(なか)・下(しも)の3地域に分けられていました。『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』によると、200年程前の家数は、上が13軒、中が16軒、下が37軒の計66軒でした。下地区に家が多いのは、鶴見川の太尾河岸(ふとおがし)があり、交通の要衝(ようしょう)として栄えていたことによります。法令などを公示する高札場(こうさつば)も下にありました。バス停の「下町会館前」、公園の「太尾下町子供の遊び場」などに、その名残を見ることが出来ます。地域の古老の方々の間では、今でも「上(かみ)の方」とか「下(しも)の方」という言い方が残っています。

地域が変化した切っ掛けは、東横線の開通と綱島街道の整備により、人と物の流れが変わったことによります。昭和14年(1939年)に池内精工と林ねぢ工場(後に自動車ねぢ工業株式会社)が進出しましたが、工場が増えて社宅が次々に建てられるようになるのは、昭和30年代(1955~64年)以降です。やがて農地や工場跡地の宅地化が進み、現在では、港北区内でも大規模集合住宅の多い地区の一つになっています。明治5年(1872年)に92戸、545人だった大倉山地区の人口は、今年3月31日現在で11,777世帯、24,938人となっています。数え方が少し違うのですが、140年ほどの間に家数で128倍、人口で46倍程に増えています。

水害が多かった大倉山地区は、東横線沿線の中では最も開発が遅れた地域の1つでした。しかし、昭和53年(1978年)に区役所総合庁舎が菊名から現在地(大豆戸町26-1)に移転したことから、大倉山駅がその最寄り駅となりました。狭い道路は拡幅され、昭和59年(1984年)に東口の商店街がレモンロードとなり、昭和63年(1988年)に西口商店街がエルム通りへと改装されて、近代的な商店街、高級住宅地へと急速に変貌しました。

新しい街作りで、象徴として位置づけられたのが大倉山記念館です。大倉精神文化研究所本館は、昭和56年(1981年)に横浜市へ寄贈され、昭和59年より市民利用施設の大倉山記念館となり、今年秋で30周年を迎えます。港北の文化のシンボルとなった記念館を中心とした大倉山公園は、観梅会が有名ですが、その後のサクラもきれいですし、ハナミズキが咲く今の季節も憩いの場として賑わっています。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2014年5月号)

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