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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第48回 大正15年の地形図 ─大倉山はじめて物語、その13─

2020.04.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前回、横浜市が制作した3千分の1地形図を紹介しましたが、最近になりそれより古い地図を見つけました。大正12年の関東大震災の後、内務省復興局が東京と横浜の復興事業を行うために作成した3千分の1地形図です。港北の辺りは大正15年(1926)11月に測図されました。東横線はこの年2月に開通したばかりですから、まだ駅前開発が進む前の様子が描かれています。
 たとえば、日吉駅西口に広がる分譲地は、線路際から放射状半円形に造成販売されるのですが、この時はまだ中央通りから北側90度分しか造成されていません。東口の綱島街道も慶應義塾大学日吉キャンパスもありません。
 綱島を見ると、綱島温泉駅(現綱島駅)の西側と東側に「田園都市住宅経営地」と書かれています。東急電鉄の母体である田園都市株式会社の分譲地という意味です。
 斜線の網掛け部が家のある場所ですので、駅周辺に家はなく、「橋場」と呼ばれた辺り(新綱島駅工事現場辺り)にだけ家があるのが分かります。大綱橋と綱島河岸に隣接する橋場、そこから南へは旧綱島街道が通っていました。大綱橋は現在より60m程下流側で、長さも流路をやっと越えられる30m程(現約170m)の木製の小さな橋でした。鶴見川の河川敷には桃畑と桑畑がありました。
 鶴見川の南側を見ると、×印が交番で、永命館という旅館、演劇館(八幡館という映画館の前身か?)がありました。この辺りに「ラジューム鉱泉地」と書かれています。ここが綱島温泉発祥の地です。
 さらに南下すると、第5回で紹介したおぼう坂は、生母(ウボ)坂と書かれています。大倉山の田畑は、明治14年の迅速測図以降に耕地整理が行われたようです。錦ヶ丘の分譲地は「田園都市住宅経営地」と書かれていますが、まだ造成されていません。
 この地形図を見て行くと、開発が始まりかけた大倉山周辺の様子が手に取るように分かります(『わがまち港北3』付録2参照)。(S.H) 

付記
前頁の地図(『わがまち港北3』279ページ参照)は、大正15年の地形図です。国立国会図書館提供の地図に一部加筆しました。綱島の西側(パデュ通り周辺)は、後に旅館街として栄えることになりますが、まだ家は一軒もありません。

(2020年4月号)

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