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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第67回 二つの大豆戸町

2022.03.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年3月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 読者の方から「大豆戸町はなぜ2ヵ所に分かれているのですか」との質問をいただきましたので、予定を変更して、今回はそのお話をしましょう。
 結論を先に言えば、大豆戸はずいぶん昔から2ヵ所に分かれているのですが、何故飛び地になっているのかはまだよく分かりません。
 まずは、いつから2ヵ所になったのか調べてみました。前回ご紹介した『土地宝典』から1931年の地図を下に示しました。赤色が大豆戸町で、すでに2ヵ所になっています。間の部分が現在の菊名七丁目です。
 遡って江戸時代を調べると、1765年の古文書にはすでに東大豆戸村と西大豆戸村の名前が出ています。県立公文書館の収蔵資料を見ていくと、その後も東と西の大豆戸村が登場する古文書がいくつもあります。東大豆戸村の名主が吉田家、西大豆戸村の名主が伊東家だったようです。明治2年(1869)の資料にも東と西の村名が書かれていました。しかし、北綱島村と南綱島村が1つの村から別々の村になったのとは異なっています。同じ年の資料でも、東西に分けずに単に大豆戸村とだけ書かれた古文書も数多くあります。大豆戸村全体の名主は吉田家が務めていて、ずっと1つの村だったと思われます。さらに、1830年に完成した『新編武蔵風土記稿』でも、大豆戸は1つの村として記録されています。離れた二つの地区でありながら、現在に至るまで1つの村(町)であり続けているのです。
 二つに分かれた理由はよく分かりません。「わがまち港北」第192回で「江戸時代に、助郷の人馬負担を軽減するために耕地の部分を菊名村に分けたことによるとの話を聞いたことがありますが、筆者は未確認です」と書きました。大豆戸村が途中から二つに分かれたのか、最初から二つの地区だったのか、筆者には今でも分かりません。
 港北区域で飛び地が生まれるのは、鶴見川やその支流が氾濫して流路が変わり川向こうになることが原因の場合が多いのですが、大豆戸に該当するのか分かりません。今後も調査を続けたいと思います。
 では、二つある大豆戸町を地域の方々はどのように区別していたのでしょうか。戦前の話ですが、大倉山の安藤家では東を「まめど」、西を「おおまめど」と呼び分けていました。詳しくは、2018年に撮影された記録動画がありますので、「港北映像ライブラリ」の「港北ふるさと人物伝「小野静枝さん」第3話二つの大豆戸町」をご覧ください。
 全く逆の話もあります。つい最近出版された『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乗寺・八杉神社』のあとがきで、村上芳信さんは「菊名から新横浜までの地区は「まめど」というが、飛び地の港北区役所・富士食品のある地区は「おおまめど」といっていると聞いた」と書かれています。この本は、菊名のポラーノ書林で販売されています。
 余談ですが、大豆戸の読み方と意味については、第18回第20回に書きましたので、『わがまち港北 3』をお読み下さい。(S.H)

神奈川区旧大綱村全図.jpg

(2022年3月号)

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