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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第69回 太尾神社の誕生―大倉山はじめて物語、その15―

2022.05.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年5月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 第66回で大倉山記念館の西に村社の神明社(下記の②)があったことを書きました。今回は、その続きです。
 現在、大倉山にある神社は太尾神社だけですが、かつては大倉山記念館脇の神明社を含めて6社もありました。大倉山一~七丁目は、元は太尾町といい、さらに古くは太尾村と呼ばれていました。太尾村は鶴見川の水害を受けやすくて、平地部は水没することが多いので家が建てられませんでした。そこで住民は、村の北部に南東から北西へ向けて続いている丘の微高地に沿って一列に家を建てて住んでいました。太尾村は、大倉山駅付近を上、新羽橋付近を下といい、丘の谷戸毎に小さな集落に分かれていて、集落毎に神社を祀っていました。それが6社です。6社は、上から字観音前の①天満社と②神明社(村社)、字五丁前の③八幡神社と④杉山神社、字棒田谷の⑤神明社、字牢尻の⑥熊野社です。この6社が合併して太尾神社になります。
 江戸時代には歓成院が6社の管理をしていましたが、明治の神仏分離により歓成院の手を離れると、管理が大変になりました。そこへ明治政府が一村一社への神社合祀政策を打ち出し、太尾村でも合併が検討されるようになります。合併については明治時代末期より話し合われていました。昭和13年には県の係官が訪れて現地調査まで実施していますが、実現しませんでした。
 戦後になり、改めて合併の気運が盛り上がり、昭和32年9月8日に氏子総会を開催して、6社を合併して太尾神社と改称することを決議しました。具体的には、まず5社を村社の②神明社に合併して、その後神明社を④杉山神社の跡地に移転し、太尾神社と改めました。神明社から杉山神社跡地に御霊(祭神)を移したときの様子は、福木照『地域(大倉山)鎮守様の歴史』に書かれています。手続きが全て終わり、正式に太尾神社として出発したのは、昭和33年6月9日でした。
 下の写真に示したように、太尾神社の石段を上りきったところに狛犬がいます。その台座には、昭和4年の銘が刻まれています。その先の右側には、「洗心」と書かれた手水鉢があり、昭和7年の銘が刻まれています。ともに大倉精神文化研究所が寄贈したもので、②神明社から移設したことが分かります。
 各神社の跡地は、昭和33年2月に入札により希望者へ売却されました。売却前の各神社の土地を法務局で調べると、①は私有地、③~⑥は神社の土地でした。②村社神明社だけは、戦前は官有地で戦後は大蔵省の所有と書かれていました。それが昭和31年5月14日に宗教法人神明社の土地になり、同33年12月に大倉精神文化研究所の土地となり、そして現在は横浜市の大倉山公園になっています。(S.H)


太尾神社の写真(サイズ小).jpg太尾神社の境内、写真を撮っている間も参拝の方が次々に来られていました。

(2022年5月号)

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