共催 公益財団法人大倉精神文化研究所・愛知大学


 

公 開 講 演 会 (終 了 分)


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第15回

太田道灌とその時代  

平成29年7月8日(土)  (愛知大学文学部教授)

 

江戸城を築いた武将で、「山吹の里」伝説でも知られる太田道灌は、本格的な戦国時代が始まる少し前、15世紀の後半に活躍した人です。この時代、関東では足利氏と上杉氏のにらみあいが続いていて、大きな内乱も起きますが、太田道灌は兵士たちを率いて戦いに勝利し、内乱を鎮めて平和をもたらします。道灌は豊かな教養をもち、連歌師や詩人などとも親しく交流していました。マルチな才能を持った稀有な人物といえますが、その力量と名声に危険を感じた主君によって殺害されてしまいます。

道灌にかかわる史料は多くはありませんが、晩年に遺した長文の書状などをもとにしながら、その活動のようすや人となりに迫りたいと思います。また彼が活躍した時代の関東の政治状況や、さまざまな武将の動きについてもふれるつもりです。


第14回

最晩年の芥川龍之介 

平成28年7月2日(土) 藤井 貴志 (愛知大学文学部准教授)

 

芥川龍之介は昭和2年7月24日、35歳の若さで自殺しました。芸術至上主義者として多くの傑作を残し、大正期を代表する作家であった芥川の突然の死は同時代に衝撃をもって受け止められました。芥川の死から昭和文学が始まるとは多くの文学史が教えるところです。 文壇向けの遺書とも取れる遺稿「或旧友へ送る手記」の中に芥川は、自らの「自殺の動機」は「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」であると記しています。この〈ぼんやりした不安〉という謎めいた言葉は、その後の世界恐慌(昭和4年)、満州事変(昭和6年)、小林多喜二虐殺(昭和8年)など、暗い時代へと突入していく同時代の気分を射貫いたものとして流行語となります。 芥川が自らの死の理由とした〈ぼんやりした不安〉とは何だったのでしょうか。

この講演では、遺稿「或阿呆の一生」を具体的に読み解きながら、最晩年の芥川龍之介について考えてみたいと思います。

 


第13回

国際感覚を育む「現地主義教育」―愛知大学現代中国学部の取り組み―

平成27年7月4日(土) 阿部 宏忠(愛知大学現代中国学部准教授、愛知大学国際ビジネスセンター所長)

 

経済のグローバル化は、世界各国のさまざまなマーケットにおいて、時々刻々と進展しています。私たちの身近にある商品・サービスも、元をたどれば意外な国々から供給されている場合も少なくありません。経済活動を担う企業にとっては、グローバル市場で縦横に活躍できる人材の育成・確保がますます急務となっています。こうした中、人材育成機関としての大学は、どのような取り組みが求められているのでしょうか?
この講演では、愛知大学現代中国学部が東亜同文書院大学の伝統を継承し、実践する「現地主義教育」に焦点をあてます。実際の教育現場の様子を紹介しながら、日中両国の架け橋となるグローバル人材育成における「現地主義教育」の意義や有効性、今後の課題などについてお話ししたいと思います。

 


第12回

国際ビジネスと私達の生活

平成26年7月12日(土)  聖(愛知大学地域政策学部教授、前副学長〔経営担当〕)

 

貿易と直接投資に代表される国際ビジネスは、現象的に「営利を目的にした、または営利活動に伴うヒト・モノ・カネ等の国境を跨いだ移動」と認識されており、その主役は企業ということになります。その企業活動は、我が国独自のものだけでなく多種多様な通商枠組みや条件のもとで行われており、特に資源や市場に恵まれている訳ではない我が国における私達の生活は、食糧・エネルギー自給率等に鑑みても、内外企業が行う国際ビジネスとの関わりなくして成り立たないといっても過言ではありません。

この講演では、国際ビジネスを巡る今日的な諸環境の俯瞰を踏まえて、国際的企業活動と私達の生活との相関を解説すると共に、賢い「利害関係者」となる為の意識と行動の要諦についてお話ししたいと思います。

 


第11回

中国北方における水不足と農業 ―寧夏回族自治区の例を中心として―

平成25年7月13日(土)  馬場 毅(愛知大学現代中国学部教授)

 

広い中国において華中、華南にくらべて華北は年間300ミリメートル前後と極端に降雨量が少ないところです。寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)はかつて西夏(せいか)が建国した地域ですが、華北の雨量の少ない地帯に属します。寧夏は、水資源の点では、北部における黃河(こうが)の水を用水路によって利用している地域、中部・南部における雨水・地下水を利用している地域に分かれます。現在中国政府の西部大開発政策の下で農業基盤整備が行われており、その下で節水型農業、農村建設が行われています。このような寧夏における節水型農業、農村建設の具体的なありかたを、フィールドワークの調査も踏まえて、お話ししたいと思います。



第10回

南関東の戦国時代

平成24年6月2日(土)  山田 邦明(愛知大学文学部教授)

 

戦国時代の神奈川県といえば、小田原を本拠とした北条氏(後北条氏)のことが頭に浮かぶと思います。北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原城を手に入れたのが1495年、秀吉の軍勢に攻められて北条氏が滅びたのが1590年なので、北条氏は100年近くにわたって支配を進めてきた戦国大名ということができます。
ただ、北条氏もはじめから相模や南関東一帯を支配していたわけではありません。北条早雲が小田原を手に入れたころ、三浦半島を本拠とする三浦氏(三浦道寸)が勢力を伸ばしていて、また北のほうには河越や江戸に拠点をもつ上杉氏(扇谷上杉氏)がいました。三浦や上杉との戦いを続け、結果的には北条氏が南関東一帯を制圧することになりますが、こうした状況になるまで50年ほどかかっているのです。
この講演では南関東の支配をめぐる北条・三浦・上杉のせめぎあいと、結果的に南関東一帯を統治することになった北条氏の領国支配のありようを、具体的にみていきたいと思います。  



第9回

『源氏物語』千年の魅力~紫の上の「うつくしさ」~

平成23年7月2日(土)  和田 明美(愛知大学文学部教授)

 

『源氏物語』は、今をさかのぼること千年、紫式部によって書かれた長編の王朝物語です。特に正編(一部・二部)は、光源氏と関わる女性たちの思考やを深く掘り下げており、一人一人の個性やその内奥に迫りつつ、平安貴族社会を生きた人間のありようを鮮やかに表現しています。
なかでも紫の上は、「紫のゆかり」として十歳の頃、北山で光源氏に見出されます。性質・容姿のみならず、知性・教養においても藤壺にまさるとも劣らぬ理想的な女性に育ち、やがて源氏と結婚します。しかし、光源氏の愛にすがりながら生きた紫の上の人生は、必ずしも幸福とは言えません。の後は、思うに任せぬわが運命を嘆きつつ、「置くと見るほどぞはかなきともすれば……」と詠じた後、四十三歳の生涯を閉じるのです。
この講演では、光源氏とともに生きた紫の上の人生の軌跡を辿りながら、年ごとに増しゆく外面的「うつくしさ」の深層にひそむ、女としての悲しみや苦悩を読み解いてゆきます。

 

第8回

著作権保護期間延長は創作活動を阻害する

平成22年7月3日(土)  時実 象一(愛知大学文学部教授)

 

歴史を振り返ると、ひとびとは「まね」をすることで文化を作り上げてきました。和歌の世界では「本歌取り」という文化があります。またミュージカル「ウエスト・サイド物語」は、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにしています。その「ロミオとジュリエット」は、ギリシャ神話の「ピュラモスとティスベ」を参考にしているといわれています。
しかし現代では、他人の作品をまねすると「盗作」といわれ、損害賠償を要求されることもあります。また映画や音楽のコピーをインターネットで流したり、ダウンロードすると犯罪とみなされ、逮捕されることもあります。
いったい著作権の正しいあり方とはなんでしょうか。また著作権が有効である保護期間はどうあるべきでしょうか。



第7回

中国農業・農村の現状と日本の食糧問題

平成21年7月11日(土)  高橋 五郎(愛知大学国際中国学研究センター所長)

 

中国農業はいま、大きな曲がり角にさしかかっている。1949年の社会主義革命直後、中国農村には希望の未来が輝いていたはずであるが、大躍進や文革、人民公社化の弊害がその希望を一挙に打ち砕いた。1978年以降、改革開放の波が農村にも押し寄せ、人民公社の解体と家庭請負責任制の導入により、農村に再び光りが戻ってきたように見えた。
たしかに農民は食料増産に励み、所得は向上し、全国的な増産が実現され、21世紀になって食料危機は消えて行った。その一方で、農村は都市ほどには豊かになれず格差が拡大した。格差は農村内部でも拡大し、豊かな農民と貧しい農民とに分かれる傾向がいまなお進んでいる。
また、貧しい農民の農地や水は荒れ、環境問題も深刻になってきた。この実態を述べたい。
一方、中国産農産物や加工食品依存の高い日本の食卓に目を転じれば、これまた深刻な状況がますます拡大している。
中国農業と日本農業は、同じ質的な問題を抱えている。そこに、解決の糸口はあるのか?

 

第6回

中国の社会変貌と消費生活

平成20年7月5日(土)  村松 幸廣(愛知大学経営学部長)

 

中国経済は毎年10%以上の成長率を誇り、急速に成長し続けています。そして、今年開催される北京オリンピックや2年後の上海万博というビックイベントを契機に、さらなる飛躍を目指しております。しかしながら、このような発展の影には社会的矛盾が垣間見えています。
中国の特徴をみると、政治は社会主義、経済は純粋資本主義、さらに地域主義やセクト主義、加えて拝金主義がはびこっています。また、競争が激しく、勝ち組と負け組がはっきりし、持てる者と持たざる者との格差や都市と農村との格差などがますます拡大しております。
近年、平等を標榜していた社会主義国家である中国は、初めて社会階層の存在を認めました。かつて農民と労働者を中核としていましたが、テクノクラートと資本家による支配が強固な国家に変貌しています。これらの状況を踏まえて、中国社会の現況と人民の消費生活の実情を紹介しつつ、問題点を指摘し、中国の真の姿を捉えたいと考えております。

 

第5回

日本人の自然観と人生

平成19年7月7日(土)   黒柳 孝夫(愛知大学副学長)

 

日本人の伝統的な自然観の特徴を「日本人は自然、とくに四季の変化などに対して、きわめて繊細鋭敏な感受性をもっている。日本人は自然に対して親和的一体感をもっている」と。建築、絵画、文学、茶道、陶磁器など日本の伝統文化や美意識の多くはこの「自然との一体感」の中から生れてきたといわれています。
日本人は、一つの教義とかコンセプトとかではなく、全体的な調和の中で生きてきました。全体的にいかに自然と調和しているかです。ゆきすぎた科学万能主義や経済中心主義からいかに脱出するか。人間中心主義、人間的なエゴイズムからどうしたら自由になれるかということです。宮崎駿監督作品『となりのトトロ』では人間中心主義の大人たちには「森や巨木に棲む想像上の動物トトロは見えない」という設定になっていたことは記憶に新しい。私は自然性への回帰と宗教性の回復が21世紀日本の最も重要なテーマだと考えています。
今回の講演で西行や芭蕉などの作品をもとに、文明社会における「日本人の自然観と人生」について問いかけてみようと思います。

 

第4回

中世の鎌倉とその周辺

平成18年6月16日(金)  山田 邦明(愛知大学文学部教授)

 

いまから820年あまり前、西暦1180年に、源頼朝は鎌倉に入り、武家の政権を樹立しました。こののち幕府の政庁として鎌倉が繁栄を遂げたことはよく知られています。1333年に新田義貞の軍勢に攻められて、幕府が滅亡したのちも、鎌倉は速やかに復興を果たし、新たな支配者となった足利氏のもとで、武家の都としての地位を保ちつづけました。1455年に鎌倉公方がこの地を去るまで、270年あまりにわたって、鎌倉は関東の政治的中心だったのです。
鎌倉には多くの武士たちが集住し、鶴岡八幡宮寺や建長寺・円覚寺などの寺院に住む僧侶たちや、一般の住民も多数いました。そしてこうした人々の生活を支えたのは、周辺地域からもたらされる食糧や物資でした。武士や僧侶たちの所領からは年貢が届けられ、周辺の山からは木材が伐り出されました。華々しい鎌倉の繁栄の陰にかくれて、ともすれば忘れられがちですが、現在の神奈川県の東部から中部、川崎・横浜・横須賀・藤沢・海老名・伊勢原・平塚と続く一帯も、それなりに栄えていたのです。この講演では、都市鎌倉だけでなく、これを支えた周辺地域のありようも、同時に考えてゆくことといたします。

 

第3回

中国調査「大旅行」
-東亜同文書院生の青春と偉業-

平成17年7月9日(土)  藤田 佳久(愛知大学教授、東亜同文書院大学記念センター運営委員長)

 

東亜同文書院は、東亜同文会による日本と中国の間の教育文化事業として、1901年(明治34)上海に開学しました。この学校は、日中間の貿易実務担当者を養成するビジネススクールの特徴をもっていました。学生は各府県の給費生としてすぐれた人材が選抜され、その後、半世紀にわたり中国にその足跡を刻みました。
教育の中心は、現地での中国語の徹底的な習得と並んで、中国から東南アジアに及ぶ「大旅行」による中国の実地調査旅行にありました。この「大旅行」は、最終学年に3ヶ月以上におよぶ徒歩を中心としたフィールドワークであり、生々しい旅行日誌と各調査テーマに即した調査報告書が作成されました。その総コース数は、中国と東南アジアを含む700コースに及びました。当時の中国は清国から中華民国への混乱期にあり、それらの記録は他に例がなく、20世紀前半期の中国全域の貴重な記録となっています。
今回は、東亜同文書院の性格にふれたあと、この「大旅行」の仕組とそこに描かれた中国像を紹介し、戦後書院を継承した愛知大学における中国研究についても紹介したいと思います。

 

第2回

日中文化交流の使節 ”中日大辞典”
― 東亜同文書院から愛知大学へ ―

平成16年7月10日(土)  今泉 潤太郎(愛知大学名誉教授、前中日大辞典編纂所長)

 

「あの華日辞典のカードを返して欲しいと願い出てみよう。」と1953年6月、本間喜一愛知大学長は鈴木擇郎教授に熱意をこめて説いた。熾烈な国共内戦の末に大陸では中華民国が中華人民共和国にかわり4年を迎えようとしていた。
戦前、外地に在った日本の高等教育機関で最も長い歴史をもつ上海の東亜同文書院も敗戦により廃校となった。無一物で上海から引き揚げてきた同校の関係者が中心になり設立されたのが愛知大学(旧制)である。本間はその同文書院大学学長であった。
同文書院では、1933年頃から華日辞典の編集を始め、敗戦時には十数万枚の単語カードができていたが、廃校に際し中華民国政府にカードを含む全資産が接収された。
鈴木は接収に来た鄭振鐸委員(著名な文学者、のち中華人民共和国文化部副部長)に対し、将来もし事情が許せば我々の手で華日辞典を完成させたいと口頭で申し入れたことを思い出した。そのカードの返還を中華人民共和国政府に願い出ようというのである。1953年の夏、愛知大学は設立6年を経てなお創業の苦闘を余儀なくさせられていた。
大倉邦彦先生の学んだ東亜同文書院とは、戦後の混乱の中での愛知大学創立秘話、現在の愛知大学の中国研究・中国学をご案内しながら共に日中関係を考えます。

 

第1回

中国経済の現状と日本企業の経営戦略

平成15年7月12日(土)  服部 健治(愛知大学現代中国学部教授)

 

今年3月に胡錦涛主席、温家宝総理の新体制が誕生した中国では、2008年の北京五輪、2010年の上海万博を弾みに、2020年にはGDP(国内総生産)を2000年の4倍増にする目標をかかげ、新たな高度経済成長に向かって驀進しようとしています。今まさに「市場としての中国」が台頭し、「世界の工場」から「世界の企業」へ飛躍しようと試みているのです。
こうした新しい状況を踏まえて、日本企業は自己の弱点を克服しつつ、いかにして巨大な中国市場に地歩を築くのか、現地、現場、現物に立脚した対中経営戦略の構築が問われています。